ハーフマラソン前日(2017/4/29)

明日はいよいよ本番のレース。
「レース」といっても私は超がつくアマチュアランナー。高望みはできない。
目標①完走すること
目標②2時間を切ること

明日は晴れ。走ることを楽しもう!





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ランニング②

4月2日(日)

体育館でランニング。100周、22キロ、2時間15分。
よし、この調子で走り込もう。
走ることは純粋に楽しい。あまり速く走らないから「はぁ、はぁ、はぁ」と息苦しさはない。足は痛いが、その痛みも以前ほどひどくない。筋肉が馴れてきたのかもしれない。村上春樹が言うところの「筋肉は覚えの良い使役動物」なのだ、きっと。

 注意深く段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるように自然に適応していく。「これだけの仕事をやってもらわなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返して説得すれば、相手も「ようがす」とその要求に合わせて徐々に力をつけていく。もちろん時間はかかる。無理にこきつかえば故障してしまう。しかし時間さえかけてやれば、そして段階的にものごとを進めていけば、文句も言わず(ときどきむずかしい顔はするが)、我慢強く、それなりに従順に強度を高めていく。「これだけの作業をこなさなくちゃいけないんだ」という記憶が、反復によって筋肉にインプットされていくわけだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』(108頁)


きっとこの覚えのよい使役動物の性質は筋肉だけではない。脳もそうだろう。毎日繰り返し文章を書き連ねることで、脳は書くことに慣れていく。当たり前の話だが、書くという行為を繰り返さないと、「書く能力(脳力)」は成長しないのである。
やれやれ、そんなことのせいで、このどーでもいい日記を書いているのである。
こんなんで書く脳力は鍛えられるのであろうか・・・。それは書き続けないと答えはでない。
ランニングと一緒で楽しくいきたいものです。

・・・・ほんと、こういった日記の類は誰に向かって書かれているのだ??
なぜ、僕らは日記を公表するだろう。
「ねえねえ今日さ、○○がね・・・」というおしゃべりと同じ意味合いだろうな。
やっぱ文字制限のないツイッターなのね。

「何か」不思議

行き先を迷っている時代。停滞している時代。
前へ前へ進んできた結果、「じゃあいつまで前へ進めばゴールになるの?」という疑問と不安。
例えば携帯電話。ポケベルから携帯電話への進化は人々を豊かにした。メールができるようになり、カメラも撮れるようになった。分からないことはネットで検索できるようになった。便利になった。
そしてスマートフォンになり、さらに便利さは向上した。
おそらく各企業の開発部はさらに便利な物、付加価値のある物を血眼になって必死に開発しているに違いない。
もういいでしょう。
いったいどこまで行けばゴールなの?便利さにゴールはないの?
資本主義は走るのを止めると他企業に食われて倒産する。だから走り続けなくてはならない?

便利さや質の向上が目的ではなく、走り続けるため(発展するため、他企業に負けないため、生き延びるため)に便利さやサービスの向上を追求しているように思えてくる。

資本主義経済にゴールはあるのですか?と経営者に問うてみたい。「止まったら負け」なんていう社会は生きづらいに決まっている。苦しいに決まっている。
私たちみんなは、実はその息苦しさに気づいていると思う。戸惑っている。足踏みしている。本当にこれでいいのか?と石橋を叩いている。

ここ15年ほど前から、私たちは不思議な言葉遣いをするようになった。
会話の枕詞に「何か」という単語を入れるようになった。「何か、あれですね」「何というか」という前置きをすることで、話出しがスムーズになった。昔はそんな言葉を使っていなかったように思う。「何か困ったな」「何か嬉しいね」「何かそれいいね」という日本語は普通に考えたらヘンである。まるで「困った」や「嬉しい」「いいね」という感情をストレートに表現できないかのようだ。
なぜ?

理由はこれとこれとこれと限定できないかもしれない。
だが、急に多用し出した点で「何か」というクッション言葉が、現代を象徴する単語であることは間違いないと思う。
「何か」という言葉に秘められている要素は考える価値がある。

言い淀む時代なんだと思う。何か疲れるね。でも何か興味深い。


阿久悠はすごい

阿久悠さんが作詞した歌にはいいものがたくさんある。それは皆さん知っている。
その上で、そのすごさを伝えたいという思いから書く。

まずはピンクレディの『UFO』である。
作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一のゴールデンコンビが作った歌である。
UFOといえばあの奇抜でセクシャルなファッションと踊りに注目されがちだが、歌詞もなかなかの力強さがある。
UFOの歌詞は以下のとおり。↓
『UFO』歌詞

歌詞をざっと要約すると次のようになる。
「ある気が利く男性がいる。その人は私のしぐさや表情から、私が何をしたがっているかや欲しがっているものがわかる。喉が渇いたらお酒を出してくれる。眠たくなったらベッドに連れて行ってそっと寝かせてくれる。手を合わせて見つめているだけで、あなたが私のことを愛してくれていることが分かる。私もあなたを愛している。胸はドキドキと高鳴る。
私はたくさんの男を知って来たけど、ここまで私の心を読み取り、尽くし、愛してくれる人には出会ったことがない。というかこんな素敵な男性がこの世に存在するのだろうか。存在していいのだろうか。もしかすると、この人は人間じゃないんじゃないのか。もしかして宇宙人なのではないか。私の心を読み取くテレパシー術でもなければ、こんなに私の望んだとおりに接してくれないはず。
でもこの際、もういいわ。この人が地球人か宇宙人かなんて。そんなの大した違いじゃない。この人が私の傍にいてくれれるだけで私は幸せ。それだけでいいの。宇宙人だっていい。もう地球の男どもには飽きたんだから」

長い意訳となってしまったが、上記を要約するとUFOとは「気の利くジェントルマンに恋する女性の心情を歌ったもの」と言えよう。
若い女性が10歳も20歳も年上の男性に惚れた恋心って、こんな感じなんじゃないのかなと思う。

この歌詞の巧みなところは、口数少ないジェントルマンに恋した女性の浮ついた心情を上手に描写しているところ。二点目はそのジェントルマンを「宇宙人」に見立てたことにある。
そして次の三点目が最も重要である。偉大なキャッチフレーズを忘れてはいけない。
そう、「地球の男にあきたところよ」である。
このワンフレーズがもつ破壊力はノストラダムス級である。地球の男に飽きるという発想は、一般人が「う~ん、う~ん」と唸っていても一生出てこない言葉である。
人類史上地球の男に飽きた者は阿久悠ただ一人なのではないか。そのあたりが阿久悠の才能でありオリジナリティと言えよう。


まとめ  ピンクレディー『UFO』の歌詞の優れている点
一、ジェントルマンに恋した女性の浮ついた心情を上手に描写する
一、ジェントルマンを「宇宙人」に見立てた発想力
一、地球の男に飽きたこと


やれやれ、世の男性諸氏よ。
女性に気を遣わないとすぐ飽きられみたいですよ。
でも宇宙人のようにはなかなかいかないですよね。



ランニング

(3月20日)
最近ランニングをしている。
その目的の一つは、太ったお腹を引っ込めるため。もう一つは、4月下旬に開催されるハーフマラソンに参加するためである。
昨年は10キロの部を完走したので、次はハーフマラソン完走を目標に立てている。

今日は一周220mの体育館を70周(15.4㎞)走った。今、足は千切れそうなほど痛い。何度走り込んでもだいたい15~16㎞あたりで膝と足首と足の付け根が痛み出す。「オイオイ、お前いつまで走らすねん」と足が喚きだす。
そんな時の対処法は大体想像はつく。小さな子供をなだめる親の態度と一緒だ。小学生くらいが怒り泣きわめいた時、親は無理に泣き止むよう叱ってみても、泣き止むどころか泣き声は勢いを増すばかりだ。その時は、じっと子どもを見つめ続けるか、場合によっては家事でもしながら泣き止むのを待つしかない。
泣き止まない内に話を聞き出そうとしても、相手は興奮しているから話にならない。
泣かない子供がいないように、泣き止まない子供はいない。筋肉も一緒である。「痛い、痛い」と筋肉が悲鳴を上げだしたら、じっと耐えるしかない。「あっそ」と素っ気なくやり過ごせるかどうかである。そのうち、泣き疲れた筋肉は、観念したかのように無口になり動き出すのである。

そのようなランニングの基本的な対処法を、私は村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』から学んだ。村上春樹は小説家にして、かなり年季の入ったランナーである。
氏は年に一回はフルマラソンを完走し、トライアスロンにも挑戦する強者だ。マラソンの起源と言われるアテネからマラトンまでも走破した。
そんな氏が北海道の「サロマ湖100キロウルトラマラソン」を完走した時の記事が次の引用である。

 55キロ休憩地点から75キロまでは、とんでもなく苦しかった。緩めの肉挽き機をくぐり抜けている牛肉のような気分だった。前に進まなくてはという意欲はあるのだが、とにかく身体全体が言うことを聞いてくれない。車のサイドブレーキをいっぱいに引いたまま、坂道をのぼっているみたいだ。身体がばらばらになって、今にもほどけてしまいそうだった。(中略)
 走っているあいだに、身体のいろんな部分が順番に痛くなっていった。右の腿がひとしきり痛み、それが右の膝に移り、左の太腿に移り……という具合に、ひととおりの身体の部分が入れ替わり立ち替わり、立ち上がってそれぞれの痛みを声高に訴えた。悲鳴を上げ、苦情を申し立て、窮状を訴え、警告を発した。彼らにとっても、100キロを走るなんていうのは未知の体験だし、みんなそれぞれに言い分はあるのだ。それはよくわかる。しかし何はともあれ、今は耐えて黙々と走り抜くしかない。強い不満を抱え、反旗を翻そうとするラディカルな革命議会をダントンだかロベスピエールだかが弁舌を駆使して説得するみたいに、僕は身体の各部を懸命に説き伏せる。励まし、すがり、おだて、叱りつけ、鼓舞する。あと少しのことなんだ。ここはなんとかこらえてがんばってくれ、と。(中略)
 いずれにせよ、なんとかかんとか、この苦痛に満ちた20キロを、歯を食いしばってしのいだ。ありとあらゆる手段を用いてやり過ごした。「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。前に進むだけだ」そう自分に言い聞かせた。



村上春樹のように100キロなんて走れやしない。15.16キロでへなっている自分がいる。
「痛い、痛い。足が痛い。なんでこんなに走っているんだろう。時間をかけて苦しい思いをして、意味があるのだろうか?よっぽどバカじゃないか」そう思いながら走ることがしばしばある。
だが、生まれてこのかた15キロを走り続けたことはなかった。走れるとは想像もつかなかった。今までできなかったことができたという爽快感は心地よい。15キロが16キロ。16キロが17キロと走れる距離が長くなるにつれて充実感が増してくるから不思議だ。意味は後からついてくる。頑張れ自分。




(3月26日)
今日も体育館でランニングをする。目標は20キロ。
走り始めてすぐに膝に軽い痛みを感じる。足も重たい。前回の疲労が抜け切れていないに違いない。
10周したあたりでその痛みは一層増大した。
「どうしようかな。今日は20周(4.4キロ)くらいで止めておこうかな。無理して走って怪我(肉離れとか)をして本番に出れないのは一番最悪だからな。やめとこうかな」と中断が頭をよぎる。
「でも本番一ヶ月前にたかだか4キロしか走れなかったなんて、心配だな。本番完走できるかな」と不安も募る。

こんな時こそ、村上春樹である。
「この膝の痛みや足の重さは、そのうち治まるはずだ。村上春樹は100キロも走っている。僕だってまだ走れるはずだ。故障しない程度に頑張ってみよう」
そう、我慢である。習ったように、ここは筋肉が叫び疲れるのをただじっと待つしかない。
「ダントン、ロベスピエール、ダントン」「ダントン、ロベスピエール、ダントン」「ダントン、ロベスピエール・・・・・・」と頭の中で何度も反芻する。
30周を超えたあたりである。不思議に足の痛みと重みがすぅーっと抜けて楽になった。「これならいける」そう思ってぼちぼち走り続けた。といってもジョギング程度のスローペースだけれども。
30周が40周、40周が50周と距離を伸ばしていき、ついに2時間7分かけて96周(21.120キロ)走り切ることができた。初めてハーフマラソンを完走できたのである。嬉しい!
村上春樹とジャコバン派のおかげである。

ところで、ジャコバン派の著名人ってもう一人いなかったけ?(世界史の授業では「マラー・ロベスピエール・ダントン」をジャコバン3巨頭と習った)
本番のレースではマラーも仲間に入れてあげよう。「マラー・ロベスピエール・ダントン」「マラー・ロベスピエール・ダントン」
足の痛みが一人分増えたらどうしよう。
ま、いっか。


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シャキシャキ玉ねぎ

Author:シャキシャキ玉ねぎ
人間について深めるブログです。
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