『バッタを倒しにアフリカへ』(2017/6/25)

本屋さんを歩いているとこんな表紙が目に飛び込んできた。

バッタを倒しにアフリカへ

瞬間「あ、これヤバイやつだな」と直感し通り過ぎようとしたが、あまりにもふざけた表紙だったため、ついつい手にとってしまった。「前野ウルド浩太郎」という著者の名前とこの表紙から、何かの宗教にでも憑りつかれた人なんじゃないかと思った。

唇はキスのためではなく、悔しさを噛みしめるためにあることを知った32歳の冬。少年の頃からの夢を追った代償は、無収入だった。研究費と生活費が保障された2年間が終わろうとしているのに、来年度以降の収入源が決まっていなかった。金がなければ研究を続けられない。冷や飯を食うどころか、おまんまの食い上げだ。昆虫学者への道が、今、しめやかに閉ざされようとしていた。
前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』P259 光文社新書



「あれ、意外と文才ある感じじゃん」と興味をそそられ立ち読みすること10分。私は994円をレジで支払い購入してしまった。
この人、一応経歴はまともな方で、神戸大学大学院自然科学研究科博士課程を終了した農学博士である。「サバクトビバッタ」(砂漠飛びバッタ)の研究に熱を燃やし、大量のバッタが作物を食い荒らす被害に悩むアフリカのモーリタニアへ研究(フィールドワーク)しに行った話である。

バッタは漢字で「飛蝗」と書き、虫の皇帝と称される。世界各地の穀倉地帯には必ず固有種のバッタが生息している。私が研究しているサバクトビバッタは、アフリカの半砂漠地帯に生息し、しばしば大量発生して農業に甚大な被害を及ぼす。その被害は聖書やコーランにも記され、ひとたび大発生すると、数百億匹が群れ、天地を覆いつくし、東京都くらいの広さの土地がすっぽりとバッタに覆い尽くされる。農作物のみならず緑という緑を食い尽くし、成虫は風に乗ると一日に100㎞以上移動するため、被害は一気に拡大する。地球上の陸地面積の20%がこのバッタ被害に遭い、年間の被害総額は西アフリカだけで400億円以上にも及び、アフリカの貧困に拍車をかける一因となっている。
 『同上書』 P112



ふむふむ、なるほど。なかなか興味深い話だなと思った。前野氏は、サバクトビバッタ研究を通してそのバッタ被害を防ごうとしているわけなのだ。動機はまともであるが、あの表紙のコスチュームから分かる通り個性的な研究者のようだ。本書を読んでいるといたるところにその個性が光っている。
ここでいう個性とは、数多いる生真面目な研究者っぽくない、茶目っ気がある点をさす。(茶目っ気=おふざけとも言う)

アフリカ滞在中に必要物資を日本から送ってもらうと、段ボールにネズミが侵入ていた時の話。

色んな不安に駆られながら荷物を全て取り出すと、ダンボールの底に穴が空いており、砕けたチャルメラとチキンラーメン、そして黒い粒が散乱している。これらの情報から仮説を導く。
「ダンボールにネズミが侵入し、ラーメンを喰った。しかも居心地がいいのでしばらくいた」
黒い塊は糞に違いない。おそらく、たまたま破れていた隙間から入り込み、貴重な食料を喰い荒らしたのだろう。
チクショウ!ネズミは黙ってチーズを喰ってろ!
(中略)
ドラえもんは睡眠中にネズミに耳を齧られ、耳を失った。ネズミに対するトラウマを彼と分かち合える日が来るとは思いもしなかった。 
『同上書』 P89.90

 

こんな感じで所々ふざけた文章が入っていて読んでいて楽しい。とてもブログ的な文章といえよう。もし興味があればどうぞ。
・・・前野氏は学会では絶対浮いた存在なんだろうな、と想像がつく。そこがいい。

※ちなみに著者名の「ウルド」とはモーリタニアでは最高に敬意を払われるミドルネームで「○○の子孫」という意味がある。モーリタニアでの研究活動が認められ、当地の研究所所長(モハメッド・アブダライ・ウルド・ババ)から授かったもの。非常に高貴なもので、名前までふざけてはいない。



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マラソン大会当日(2017/4/30)

当日の天気は晴れ。
富山県東部の気象データによると、最高気温は29℃、風速9メートル、湿度17%という気候コンディション。
「暑さと風で後半バテるだろうな~」という読みをランナーの誰もがしたはずだ。
しかし、それは真面目にコツコツ走り込んできた年季の入ったランナーがするべき予測であった。

マラソン初心者にとって21㎞という道のりは長く過酷であった。

序盤は、急く気持ちを抑えながら、ペース(約6分/㎞)を刻みながら走れた。キロ6分ペースとはまさにジョギング速度で、とても気持ちよく走れる。その速度を保てば2時間ちょっとでゴールすることができる。大会ゲストランナーである野尻あずさ選手の「刻んでいきましょう、刻んでいきましょう」や「ナイスラン、ナイスラン」という声、沿道に立つ人々の声援が心地よい。たまたまいた知人にもにこやかに手を上げ応えることができた。
余裕だ。
中間地点のタイムが1時間7分。まずまずかな。この時点でゴールタイムを2時間切るという目標の一つは現実的ではなくなった。しかし「前半抑えた分、後半は少しペースを上げることができよう。まあ、ゴールタイムは2時間5.6分というところか」とまずまずのタイムでの完走に目標を切り替えた。

ここまでは良かったんじゃないかな。気持ちよく走れた。走る喜びを感じることができた。楽しかった。


12㎞あたりから私はバテ出した。ふくらはぎが時より「ピキッ、ピキッ」と不吉な音を立てるようになった。
ちょっと待って!早すぎる!嘘でしょ!
元々私は足が攣りやすい体質である。職場のサッカーチームの試合では、当時20代で一番若い若いにも関わらず、誰よりも早く足を攣り、ピッチを後にするガラスの筋肉を持つ男である。後半から出場し、後半で足を攣って交代する悲しみを私は知っている。

体育館中心だった練習とは違い、かんかんに照る太陽、高温、強風が私のガラスの筋肉を容赦なくいたぶる。
16㎞からは「これ以上ペースを上げると終わります」という段階まで筋肉が硬直し出した。特に右ふくらはぎと右腿が痛い。
沿道の人が見れば「この人大丈夫?」というくらいまでペースは落ちた。今なら体育の長距離走で最後尾を走る学生の気持ちが分かる。自分では頑張って走っていても、傍からは「ヤル気ないんと違うかコイツ」と思われてしまうこのやるせなさよ。

「ピーポー、ピーポー、ピーポー」とレース中4回ほど救急車を目にした。熱中症で無念にも病院へ運ばれていくランナーたちがいる。その度に「ねえ!私も連れてって」と手と声を上げたい衝動に駆られた。

思い返すと本当に情けない(笑)

ここで村上春樹の教訓を思い出そうとした。
「私の筋肉は一個の機械でしかない。前へ前へとただ足を動かす感情のない機械だ」
「マラー、ロベスピエール、ダントン」「マラー、ロベスピエール、ダントン」「我慢、我慢」
以上のことを頭の中で念じてみたが、事態は全く好転しなかった。
足は痛い。喉は渇く。むしろ余計なことを考えるとイライラしてくる。
結局のところ村上春樹のランニング本を読む時間があれば、走り込みをした方がよっぽどよかったのだ。


残り1㎞の看板が見えてきた頃、右足のふくらはぎと太腿の筋肉が「ドク、ドグ」と音を立て攣り上がり、ついに最後通告を突きつけてきた。「無条件降伏しなさい。さもないと肉離れしちゃいますよ」と。
もはやダラダラとも走れない。今だからこんなふざけた筆調で書いているが、当時はもう、本当に痛かったのだ。
仕方なく立ち止まり、街路樹にもたれながらストレッチをする。治らない。痛いけど走る。でもやっぱり痛い。街路樹にもたれてストレッチ。治らないけど走り出す。やっぱり痛い。
その一連の動作を5回ほど繰り返したと思う。やけくそになりながら何とかゴールした。
「ゴールイン」という爽快さは無い。「たどり着いた」という表現が正しい。

タイムは2時間20分。
ここまで遅いと「君、ハーフマラソンは走らない方がいいよ(まだ早い)」ということになる。
本当に情けないレースだった。レース中たくさんの人が私を抜き去って行った。
アンパンマンの仮装をした人(被り物をしたまま走っていたのにかなり速かった。すごい)、推定体重が120キロのお兄さん、原始人のコスチュームにビーチサンダルの青年、ミニーマウスのカチューシャとスカートを穿いて走る女性、65歳オーバーのおじいちゃん。

大勢のランナーに抜かれた。これも大変ショックである。
マラソンは勝ち負けではない。人と比較する必要はなく自分との勝負だ。自分の目標を達成できたかどうかが肝心だ。
そう思う。
だけどこの惨敗ぶりは・・・。完走という目標を達成したとはいえ・・・この惨めさたるや・・・。

夜に飲んだビールが格別にうまかったのもまた悔しい。










ハーフマラソン前日(2017/4/29)

明日はいよいよ本番のレース。
「レース」といっても私は超がつくアマチュアランナー。高望みはできない。
目標①完走すること
目標②2時間を切ること

明日は晴れ。走ることを楽しもう!





ランニング②

4月2日(日)

体育館でランニング。100周、22キロ、2時間15分。
よし、この調子で走り込もう。
走ることは純粋に楽しい。あまり速く走らないから「はぁ、はぁ、はぁ」と息苦しさはない。足は痛いが、その痛みも以前ほどひどくない。筋肉が馴れてきたのかもしれない。村上春樹が言うところの「筋肉は覚えの良い使役動物」なのだ、きっと。

 注意深く段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるように自然に適応していく。「これだけの仕事をやってもらわなくては困るんだよ」と実例を示しながら繰り返して説得すれば、相手も「ようがす」とその要求に合わせて徐々に力をつけていく。もちろん時間はかかる。無理にこきつかえば故障してしまう。しかし時間さえかけてやれば、そして段階的にものごとを進めていけば、文句も言わず(ときどきむずかしい顔はするが)、我慢強く、それなりに従順に強度を高めていく。「これだけの作業をこなさなくちゃいけないんだ」という記憶が、反復によって筋肉にインプットされていくわけだ。

『走ることについて語るときに僕の語ること』(108頁)


きっとこの覚えのよい使役動物の性質は筋肉だけではない。脳もそうだろう。毎日繰り返し文章を書き連ねることで、脳は書くことに慣れていく。当たり前の話だが、書くという行為を繰り返さないと、「書く能力(脳力)」は成長しないのである。
やれやれ、そんなことのせいで、このどーでもいい日記を書いているのである。
こんなんで書く脳力は鍛えられるのであろうか・・・。それは書き続けないと答えはでない。
ランニングと一緒で楽しくいきたいものです。

・・・・ほんと、こういった日記の類は誰に向かって書かれているのだ??
なぜ、僕らは日記を公表するだろう。
「ねえねえ今日さ、○○がね・・・」というおしゃべりと同じ意味合いだろうな。
やっぱ文字制限のないツイッターなのね。

「何か」不思議

行き先を迷っている時代。停滞している時代。
前へ前へ進んできた結果、「じゃあいつまで前へ進めばゴールになるの?」という疑問と不安。
例えば携帯電話。ポケベルから携帯電話への進化は人々を豊かにした。メールができるようになり、カメラも撮れるようになった。分からないことはネットで検索できるようになった。便利になった。
そしてスマートフォンになり、さらに便利さは向上した。
おそらく各企業の開発部はさらに便利な物、付加価値のある物を血眼になって必死に開発しているに違いない。
もういいでしょう。
いったいどこまで行けばゴールなの?便利さにゴールはないの?
資本主義は走るのを止めると他企業に食われて倒産する。だから走り続けなくてはならない?

便利さや質の向上が目的ではなく、走り続けるため(発展するため、他企業に負けないため、生き延びるため)に便利さやサービスの向上を追求しているように思えてくる。

資本主義経済にゴールはあるのですか?と経営者に問うてみたい。「止まったら負け」なんていう社会は生きづらいに決まっている。苦しいに決まっている。
私たちみんなは、実はその息苦しさに気づいていると思う。戸惑っている。足踏みしている。本当にこれでいいのか?と石橋を叩いている。

ここ15年ほど前から、私たちは不思議な言葉遣いをするようになった。
会話の枕詞に「何か」という単語を入れるようになった。「何か、あれですね」「何というか」という前置きをすることで、話出しがスムーズになった。昔はそんな言葉を使っていなかったように思う。「何か困ったな」「何か嬉しいね」「何かそれいいね」という日本語は普通に考えたらヘンである。まるで「困った」や「嬉しい」「いいね」という感情をストレートに表現できないかのようだ。
なぜ?

理由はこれとこれとこれと限定できないかもしれない。
だが、急に多用し出した点で「何か」というクッション言葉が、現代を象徴する単語であることは間違いないと思う。
「何か」という言葉に秘められている要素は考える価値がある。

言い淀む時代なんだと思う。何か疲れるね。でも何か興味深い。


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Author:シャキシャキ玉ねぎ
人間について深めるブログです。
違った考えや捉え方を指摘していただけると嬉しいです。

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